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「がんばって」は実に残酷です
「がんばって」は実に残酷です
次の記事が神戸新聞に掲載されていました
ここから新聞記事からの引用です。→
随想「がんばって」を拝読しました。
主人が人工呼吸器を着けて、8ヶ月入院で、患者自身はもちろん、付き添っている家族にとってこんな残酷な言葉はありません。
毎日の看護に伴い、もう回復しない病である悲しみ、主人が主人でなくなっていく様子を見るつらさ。
看護師の心ない言葉、医者の威圧的な言葉と、こちらは体の疲れよりも精神的なつらさの方が強かった。
相手は励ましのつもりの言葉が、どれだけ神経の疲れている者の心を傷つけることか。
私はその後、自分がいわれて、つらかった言葉は絶対に、人には言わないように気を付けている。
どんな慰めの言葉をいったところで、苦しみ悲しんでいる人にとっては、結局、言葉の上滑りで、自分がその立場になってみて、初めてわかるのではないだろうか。
今の時代、医者を選べる時代ともいわれるが、決してそんなことはない。
患者は受け身で、医師のいいなりになるしか仕方がないのかと、実感しました。
今でもくやしい思いは忘れられません。
(主婦71歳、高砂市、本名も掲載されていますが、ここでは伏せます)
←ここまで2007年4月26日神戸新聞朝刊7頁からの引用でした。
以前ご紹介した
「がんばって」
の記事内容についての感想文です。
肉まん父さん自身、本当に「十人十色」というように、色々な受け止め方があって良い、と感じています。
肉まん父さん自身の「介護」などに関しても、実社会でもよく「大変ですね」と言って頂きますが、「頑張って下さい」と言われても、複雑な思いをしています。
今の義父は、たとえば、「放尿」と言って、自宅でもトイレの場所がわからなくなってきていますので、目を離していると今現在いる場所から数歩歩いた壁際に来ると、「おしっこ」をします。
畳(たたみ)の上だろうが、カーペットの上だろうが、気にしません。
というより、その最中(さいちゅう)は、そこがトイレだと本気で思っておられます。
「認知症」の方にとっては、本人が「こうである」と思ったことが全て正しいのです。
誰も「否定」することはできません。
もし、「認知症」の本人が納得する形で「否定」する方法があるのならば、肉まん父さんまでご教授下さい。
「放尿」のケースも、誰かが気付いて「トイレはこちらですよ」と導くと、無事済ませることが出来るのです。
マンツーマンで見ていないと、後始末が大変です。
そして、「お金」はやはり必要です。
肉まん父さん自身、自分自身が、将来に「介護」を受ける時のためにも「お金」をもっと貯めていかなければいけないと感じつつある毎日です。
いくらあれば大丈夫だ、とは言えなくなりました。
この間は、「看護師」「ケアマネージャー」「ヘルパー」のお三方に義父のケアを同時に見て頂く機会に恵まれましたが、精神的に「安心」できました。
お医者様から見放され、福祉施設から受け入れ拒否にあうような「認知症」の症状には、今は元気で健やかに(すこやかに)活動している方でも、誰でもなる可能性があるのです。
若い時分にどれだけ、「素晴らしい」と言われていたような人でも、上の記事にもあったように
主人が主人でなくなっていく様子を見るつらさ。
というような状況になる可能性があるのです。
肉まん父さんにとっては「義父が義父でなくなっていくような感覚」を実体験として感じていく毎日です。
本当に「こわれていく」と言っても言い過ぎではないくらいです。
また「介護」問題についても、いつかまとめる機会をもちたいと思っています。
これからもよろしくお願い致します。
肉まん父さん
タグ:介護・老人問題